さて、3月28日(日)の夜、何気なくラジオを聞いていたら、村田製作所がスポンサーになっているTBSラジオ『サイエンス・サイトーク』という番組に植松 努さんという飛行機好き、ロケット好きのいかにもものつくり職人といった方がゲスト出演していてその話しがとてもよかった。よかったと思ったのは植村さんと自分は同類だと感じたからかもしれない。
この番組はポッドキャストでも配信されており、今日紹介する話しはiPODに録音して、少しずつ再生しながらポメラでテキストに起こしたものだ。
前置きはそれくらいにして、植村さんが何を言ったのか紹介していこう。
【植松 努さんのプロフィール】
植松努(うえまつつとむ)植松電機専務取締役 1966年北海道芦別生まれ。子供のころから紙飛行機が好きで宇宙にあこがれ 大学で流体力学を学び、名古屋で航空機設計を手がける会社に入社。 5年後の1994年に実家のある北海道へ戻る。父(植松清)が経営する植松電機へ。 産業廃棄物からの除鉄、選鉄に使う電磁石の開発製作に成功。 分別用電磁石は全国のシェアの八割を誇るまでに導く。■2010年03月28日放送 … ロケットを作った町工場(1) 番組の紹介文
北海道赤平市にある「植松電機」。親子二人だけの小さな町工場でしたが、現在は約20人の社員で、ロケットや小型人工衛星の製造を手がけています。■植松さんの子どもの頃
その背景には「将来はロケットの設計をしたい」という植松さんの子供の頃からの夢がありました。「どうせ無理」だと考えず、あきらめないで頑張れば夢はかなう、という植松さんは仕事のかたわら、講演や子供向けのロケット教室などで全国を飛び回っています。2回に渡ってたっぷり話を聞きます。
→成功と失敗を疑似体験し、最終は成功するというイメージトレーニングが出来たのだろう。伝記とはそういうものだ。
- 飛行機・ロケット好きの植松少年は飛行機が作りたくて、独学で飛行機やロケットのことを学んだ。飛行機、ロケットを飛ばした人たちの伝記を読みあさった。
- 伝記を読んでいたのでいろいろな人が工夫をしていく様、トラブルの解決の仕方を学んだ結果あきらめ方(あきらめて投げ出すということ)を知らずに育った。
■飛行機を設計する会社に入ったとき
自分が小さいときからあこがれていた堀越二郎(ゼロ戦の設計者)がいた会社に入ることができた。(神様はいるものだと思った)そして念願の飛行機の設計をできることになった。■引きこもり状態からの回帰
ところが、そのうち植村氏は周りが高学歴な人たちばかりであることに気がつき不安が募るようにる。そして、組織の中で自分が少しでも役に立ちたいと思い、飛行機の知識を周りにひけらかしまくるようになる。自分は子供の頃からのめり込んでいた世界なので他の人より遙かに多くのことを知っていた。しゃべり続ければ続けるほど徐々に自分が嫌われていくようになっていた。自分自身もそんなことをしているのが嫌になって引きこもるようになり、人と関わらなくなるようになった。仕事だけはやってそれ以外の対人関係はできるだけ避けるという状態。
自分が引きこもりになったときに救ってくれたのが寮の仲間たちだった。スポーツマンの同僚が自分を何かある度に誘ってくれていた。しかし、彼は自分の反対側にいる人だと思っていたので、誘われてもいかなかった。それでも何回も誘ってくれて、いつの日か誘われるままにスキーにいった。■なぜ、飛行機を設計する会社を辞めてしまったのか?
自分はオールレンタルで滑った。誘ってくれた同僚に「おまえすごいな、転ばないな」と言われた。考えてみたら自分は北海道出身だし、子供の頃学校でもスキーをやっていたので当たり前のこと。それでスキーの技術をスポーツマンの同僚に教えていったらみるみる上達していった。そうしたら他の人にも「こいつに聞け」と紹介してくれた。それで自信を取り戻し、帰ってからスキーを一式買ってワックスかけてエッジを整備してとやっていたらどんどん人が集まる部屋になっていった。
そのときに「不安とは恐ろしいものだ」「自信はとても重要なものなんだ」と痛感した。
誘ってくる同僚に対して当時「なんで見ず知らずの自分に関わってくるのだろう」「嫌だ嫌だ」とずっと思っていたのだけれども、困っている自分を見てなんとかしなくてはいけないなと思ってくれたのだと思う。もしかしたら彼自身も苦しい時期があったのかもしれない。
自分たちよりも後に入ってくる人たちが飛行機から遠ざかっていることに気がついた。飛行機を作る仕事をしているのに飛行機にまったく興味がない。学研の図鑑を読んだことがない人たちが続々と入ってくるようになってくる。そうすると彼らは好きじゃないから頑張れない。そしていわれたこと以外ことをすると損をするという発想を持っている。だから要求されたことしかやらないようになる。当時、自分のいた会社には「奇跡は仕様書には書かれていない」「奇跡は要求されたことの中には書いていないからお人好しが起こすんだよ」という言葉があった。彼らはそれをやらない人たちになっていった。それはミニマムマキシマムだと思った。最低限これだけはやっておいてねといわれたことを、「それだけやっておけば十分なんだろ」「それ以上のことをしたら損する」という考え方。「効率が嫌いなんですか」というラジオパーソナリティの問いに対して、
好きなことはどれだけやっても損はしないはず。ところが好きなことが奪い取られるしくみがある。それは中学校くらいから始まる。「受験以外のことをしたら損をするよ」ということを誰かが教える。「必要最低限のやまを暗記してそれ以外のことを入れたら頭が損をするよ」と教えられるようになる。そうると受験勉強のこと以外のことをいっさいできなくなる。
この世の中に損なことはひとつしかなくて、それは何もしないこと、面倒くさいけど自分がやりたいこと避ければ避けるほど本当は損するのに「最短コースこそが美徳です」のようなことを教えてしまうと負のスパイラルは激しさを増す。
手加減をしている一秒も自分の一秒ですから自分の人生短いんだから手加減したり楽したりしないほうがいいんじゃないのと思う。それを誰かが「楽をして暮らすんだよ」「楽した方がいいよ」と教える。楽ということを目標みたいに伝える人がいる。でも楽したら辛いと思う。自分は自分のことを職人だと思っているから、植村さんの言っていることがよく分かる。しかし、一方で自分がものづくりに寄せる想いの強さと、それほどまでに想いが強くない人たちと一緒に仕事をしなけれいけないという現実も分かっている。それがイヤなら植村さんの会社のように少数精鋭の組織で仕事をするしかない。しかし、もっと大きな組織でなければできない商品もある。
暇はつぶしちゃいけないんですよ。暇は自分にとって特になることに使えば人生の時間はすごく輝きを増すはずなんです。人生の幸せは生涯賃金の総額ではないことはみんな分かっていると思う。人生の時間を費やして得た知恵と経験と周りの信頼と愛情こそが人生の価値だろうと思う。
自分のくふうが報われたときに泣けるんです。泣くほどしんどいときに泣けるんだろうと思います。
車の世界では新車種の開発はチーフエンジニアと呼ばれる技術者が全責任を担う。トヨタではチーフエンジニアのアシスタントを4~5年務めてからチーフエンジニアに昇格するのが普通だったが、車種の増加と開発期間の短縮で近年は「経験を十分に積まないまま、チーフエンジニアに抜擢されるケースも目立つらしい。昔はチーフエンジニアを中心に開発チームが寝食を忘れて徹底的に議論して一台の車を作り上げる泥臭さがあったがいまではパーツごとの縦割り開発にならざるを得ない。
プリウスのブレーキシステムの複雑さを見れば分かるように、今では車全部の機能やメカニズム、制御方法をチーフエンジニアが全部把握するのは無理だ。ひとりのエンジニアがシステム全体を見渡せるシステム規模ではなくなっている。
だから、植村さんが言うようなエンジニアが必要なことは間違いないが、プロジェクト全員にそういう意識を持たせるのは難しい。それでも、顧客満足は満たさなければいけないし、安全は絶対に確保しなければいけない。「品質を心配する意識の強さ」「エンジニアの商品にかける熱意」だけでは安全は確保できない時代に突入している。「品質を心配する意識の強さ」「エンジニアの商品にかける熱意」を保ちながら、システマティックに安全分析を行い、安全アーキテクチャを設計することが求められている。
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