今週のテレビ朝日サンデープロジェクトは次の4方と司会の田原総一朗氏が、「日本の拠って立つものとは?」というテーマで討論をしていた。
西部 邁 (評論家)
中谷 巌 (三菱UFJリサーチ&コンサルティング理事長)
櫻井 よしこ(ジャーナリスト)
姜 尚中 (東京大学大学院教授)
中谷 巌氏は、過去に自分が行っていた言動(アメリカ流の新自由主義や市場原理主義、グローバル資本主義に対する礼賛言動、構造改革推進発言など)を自己批判し、180度転向したことを宣言した上で、小泉純一郎の行った構造改革を批判、ベーシック・インカムの導入等の提言を行っている。中谷氏の懺悔本という位置づけの『資本主義はなぜ自壊したのか~「日本」再生への提言』が話題を呼んでいる。簡単に言えば、西洋の真似をしようとしたのは間違い(真似するだけではダメ)と言い始めた人だ。
サンデープロジェクトはこの放送でちょうど1000回目を迎え、その節目に日本という国と、その社会の進むべき道として「日本が拠って立つものとは?」というテーマを取り上げた。
戦後、世界第二位の経済大国にまで昇り詰めた日本は、現在、未曾有の不況に直面し、その政治・社会の様相も、大きな転換期に立っている。一体、私達の国と社会は、何を拠りどころとしてここまで歩んできたのか?これから、何をよりどころとして歩んでいくのか?
これを討論した。この討論の中で、櫻井 よしこさんは、「日本が拠って立つものとは?」の問いに、それは「武士道の精神である」と答え、『武士道(新渡戸稲造著)』を引用し、日本人が単一の宗教による影響力なしに一定の規範を持ちながら政治、経済、文化を維持できているのは日本人の中に武士道の精神があるからだと語った。
この話しには思わず「ガッテン」ボタンを3回押した。2008年8月に書いた『サムライエンジニア』の記事を是非読んでいただきたい。この記事から一部引用する。
自分が考えるサムライエンジニアとは次のような技術者のことだ。(字下げされている部分は『武士道』からの引用)
【義】 サムライエンジニアは義理堅く恩義は忘れない
義理の本来の意味は義務に他ならない。しかして義理という語のできた理由は次の事実からであると、私は思う。すなわち我々の行為、たとえば親に対する行為において、唯一の動機は愛であるべきであるが、そに欠けたる場合、孝を命ずるためには何か他の権威がなければならぬ。そこで人々はこの権威を義理において構成したのである。彼らが義理の権威を形成したことは極めて正当である。何ともなればもし愛が徳行を刺激するほどに強烈に働かない場合には、人は知性に助けを求めねばならない。すなわち人の理性を動かして、正しく行為する必要を知らしめなければならない。
サムライエンジニアは金や権威では動かない。受けた恩義を返すために動く。
【勇】 サムライエンジニアは正しいことを行うときこそ勇気を使う
勇気は、義のために行われるのでなければ、徳の中に数えられるにほとんど値しない。孔子は『論語』において、その常用の論法に従い消極的に勇の定義を下して、「義を見てならざるは勇なきなり」と説いた。この格言を積極的に言い直せば、「勇とは義(ただ)しき事をなすことなり」である。
サムライエンジニアは組織や上司の命令あっても、コンプライアンスや顧客に不利益となることは行わない。顧客に不利益となることを指示された場合は勇気をもって義のために反論する。
【仁】 サムライエンジニアは仁愛を持って他者に接する
仁は柔和なる徳であって、母のごとくである。真直なる道義と厳格なる正義とが特に男性的であるとすれば、慈愛は女性的なる柔和さと説得性を持つ。我々は無差別的な愛に溺れることなく、正義と道義をもってこれに塩つくべきことを戒められた。伊達政宗が「義に過ぐれば固くなる、仁に過ぐれば弱くなる」と道破せる格言は、人のしばしば引用するところである。幸いにも慈愛は美であり、しかも希有ではない。「最も剛毅なる者は柔和なる者は最も柔和なる者であり、愛ある者は勇敢なるものである」とは普遍的に真理である。「武士の情け」という言は、直ちに我が国民の高貴なる情感に訴えた。武士の仁愛が他の人間の仁愛と種別的に異なるわけではない。しかし武士の場合にありては愛は盲目的な衝動ではなく、正義に対して適当なる顧慮を払える愛であり、また単に或る心の状態としてのみではなく、殺生与奪の権力を背後に有する愛だからである。
サムライエンジニアは誠実な隣人に対して仁愛を持って接する。クライアントとサプライヤの関係や上司と部下の関係を利用することはせず、誠実な技術者には立場を越えて協業する。
【礼】 サムライエンジニアは正当なる物事に対して尊敬の念を抱き礼を尽くす
作法の慇懃鄭重(いんぎんていちょう)は日本人の著しき特性として、外人観光者を惹くところである。もし単に良き趣味を損なうことを怖れてなされるに過ぎざる時は、礼儀は貧弱なる徳である。真の礼はこれに反し、他人の感情に対する同情的思いやりの外に現れたるものである。それはまた正当なる事物に対する正当なる尊敬、したがって社会的地位に対する正当なる尊敬を意味する。何となれば社会的地位に対する尊敬を意味する。
サムライエンジニアは高き技術に素直に感動し、その技術を吸収したいと考えるとともに、その技術、その技術を持つ者を尊敬し礼を尽くす。
【誠】 サムライエンジニアは誠実に徹し、嘘をつかない
真実と誠実なくしては、礼儀は茶番であり芝居である。伊達政宗曰く、「礼に過ぐれば諂い(へつらい)となる」と。「心だに誠の道にかないなば、祈らずとても神や守らん」と戒めし昔の歌人は、ポロニウスを凌駕する。孔子は『中庸』において誠を尊び、これに超自然力を賦与してほとんど神と同視した。曰く、「誠は物の終始なり、誠ならざれば物なし」と。
サムライエンジニアは失敗やリスク、日程の遅れの可能性について嘘をつかない。真実を報告し、問題解決を誠実に遂行する。
【記事からの引用終わり】
みなさんの中にもこのような考え方に「うん、確かにそう思う」という気持ちが奥底の方にあれば、それこそ日本人の中に脈々と流れている武士道の精神なのだ。
さて、「日本が拠って立つものとは?」の話しに戻ろう。司会者の田原氏含め5人がいろいろな意見を述べたが、本質的な方向は同じ向きを向いており、最終的な意見は次のようなものであると自分は理解した。
- 戦後、日本は政治も経済も文化も西洋(特にアメリカ)のやり方を受け入れ、真似をしてここまでやってきた。
- 今になって、いろいろなことが立ちゆかなくなってきて改めて日本の良さとは何かを考えてみると、「日本が拠って立つものとは?」もともと日本が本来持っていたものが重要であることが分かる。
- ただし、古き良き時代を回顧するだけでは、グローバル社会で生き残っていけない。
- したがって、今一度日本人が守ってきた価値観が何であったのかを認識した上で、世界の多用な価値観を拒絶せずに理解し、場合によっては受け入れることが、これからは求められる。
この議論は、日本という国と、その社会の進むべき道についてであり、日本の組込みソフトウェア開発がどうあるべきかというテーマではない。しかし、自分はこの議論を方向性と、「日本の組込みソフトウェア開発がどうあるべきか」の方向性は同じであると確信している。
ソフトウェアは毎日のソフトウェアエンジニアの成果の積み重ねで作られており、再利用性が高まったとはいうものの、未だに毎日毎日おびただしい量のソフトウェアが作られ、かつ、まだまだ日本人が作ったソフトウェアが組込み製品の品質の高さを維持することに貢献していると考えている。
日本のソフトウェアの品質の高さは、日本のソフトウェアエンジニアの特性によるものが大きいというのが自分の持論で、その日本のソフトウェアエンジニアの特性をベースに、西洋のよいところをうまく取り入れていくことがこれからの日本のソフトウェア開発に求められているというのが自分の考えだ。
問題は、もともとの日本の良いところは何なのかを十分に理解しないで、西洋でうまくいった方法論をそのまんま適用しようとする人たちが多すぎるということだ。
先日、日本でMBAの資格を取った同僚と話しをしていて「なぜ」を5回繰り返してことの本質を追求する方法について話しをしていたら、「それって、5 Why 法だろう?」と言われた。「なぜ、なぜ問答」はトヨタで実践されているやり方であり、それが西洋に渡って 5 Why 法と呼ばれるようになったのだというのが自分の認識だ。日本人がやってきた「なぜ、なぜ問答」は「トヨタがやっている」という形容詞が付かないと大して見向きもされないのに、5 Whys Method と英語にするだけで、有効性の高い方法論と捕らえる人がたくさんいるのは、自分はどうしても納得できない。日本人は自分達のプロジェクトでやっている有効性の高い活動の方法をそれがどれだけすごいことなのかまったく意識せずに自慢もせずにコツコツと積み重ねている人たちがたくさんいる。日本人の奥ゆかしい性質が、有効な方法論であっても「こんなにすごいんです」とは言わせないし、「自慢するためにやっているんじゃない」と思って黙々と働く。
スーパーに有効性の高い方法論ではなくても、「なかなかいいね」くらいの努力をほとんどすべてのプロジェクトが漏れなく、かつ一歩一歩確実に実施していて、これを積み重ねれば大きな力、高い品質につながる。日本の組込みソフトウェアの品質が高いのはこれが原因じゃないのだろうか。
「なぜ、なぜ問答」=5 Whys Method と同じような例として、品質機能展開=QFD 、日本的品質管理=QCコントロールなどもある。日本で体系化されたときはあまり盛り上がらず、西洋で認められ逆輸入されると注目される方法論はたくさんある。
日本や日本人の良さをベースに品質管理やソフトウェア品質を語る人はいる。ただし、自分の感覚ではその方達はみな高齢になりつつあり、日本発のソリューションもしくは、西洋で体系化された方法論を日本人向けにテーラリングした成果を発表する若い研究者、エンジニアをあまり見かけないように思う。
確信を持ってその原因が何とは言えないが、思うに自分自身で考えて考えて考え抜いて絞り出した独自の価値観を持つ人が少なくなったことが原因になっているのではないだろうか。テレビなどのマスコミや他人が語る価値観に簡単になびいてしまう、他人の成功体験で自分が成功したような気になってしまう人が多くなっていないだろうか。
西洋発のアプローチは何もかも悪いということではない。自分が言いたいのは、どんなやり方でもいいから最後までやり遂げて、目的を果たして、オリジナルのやり方に対して結果的にどんなテーラリングをしたのか、日本人向けにどんな変更が必要だったのかを見届けてその内容を外に発表して欲しいのだ。
最後の最後に品質を維持しているのは、西洋発のアプローチの力よりも、日本人エンジニアの特性や粘り、頑張りの力の方が大きいということではないよね? ということである。崇高な方法論で指揮されたプロジェクトも実際には、仕事がどんどん下請けに送られ最後は日本人エンジニアの粘りと残業がプロジェクトを支えていることはないかということである。
サンデープロジェクトで「日本が拠って立つものとは?」で語られた話は、実は「日本の組込みソフトウェア開発でも同じなんです」と声を大にして言いたい。
日本の組織では、権限を持っていなくても顧客のことを考えて「こうしよう」と熱く語りかけ、自分を省みずに黙々と働く姿を見せることで、成果を成し遂げる人がいるのを知っている。これは直感だけれども日本的なリーダーシップとは何か、日本的なリーダーシップを鍛える方法論は日本人が確立しなけれいけないのだと思う。
1. 日本人の特性をベースにして、2. 西洋の方法論を上手に取り入れることが大事だと自分は考えている。この順番を崩さない少数派の組込みアーキテクトとしてこれからもいろいろなテーマについて考えていきたい。
1 件のコメント:
初めまして。共感する記事だったので、サムライエンジニアの話も読んでみました。
仰る武士道エンジニアは、私の知る限り多くの場所にいました。しかし、成果を上げる能力を持った誠実なエンジニアほど、業界を去る例が多いように思っています。いくら注意してもバグやトラブルで切腹を余儀なくされる侍に重なって見えないでしょうか?
私も侍エンジニアを目指したいと思いますが、SW風に言う暗黒面の誘惑を断ち切れず、過剰防衛や飛び道具を捨てられません。もうちょっと修行が必要なようです。
面白い記事ありがとうございました。
コメントを投稿