STAP細胞の真偽のニュースを見ていて、サイエンスの論文はたいへんだなあと感じている。サイエンスの論文で大事なのは再現性とメカニズムだと思う。
STAP細胞で今問題視されているのは、まずは再現性だ。論文に書かれた方法で実験しても小保方さん以外でまだ再現に成功した研究者がいない。
そして、小保方さんの論文には、なぜSTAP細胞が(本当にあるとして)できるのかのメカニズムの分析や推定がないように思う。
再生医療で社会に貢献するためには、まず、「STAP細胞があるという証明」とともに再現するための手順が必要であり、さらなる研究を促すためにはSTAP細胞がなぜできるのかのメカニズムの説明・証明が必要だと感じる。
ただ、サイエンスの世界ではそれができれば、非常に大きな社会貢献が実現する。だからこそ、サイエンスの論文は権威が高く、査読や研究者からの評価も厳しいのだろう。
一方でエンジニアリングの論文はどうだろうか。自分もエンジニアリングの論文を書いたことが何回かあるが、サイエンスの論文との違いにいつも釈然としないものを感じる。
特に情報工学、ソフトウェア工学の論文についてはいろいろ思うことがある。
まずは、再現性について。ソフトウェア工学で普遍的な再現性は果たして言えるのだろうか。ソフトウェアを作っているのはまだ人間だ。例えばソフトウェア工学における新しい方法論の論文があったとする。もちろん、その論文では一つかいくつかのプロジェクトで効果があったという結論になっている。しかし、人間が作っている以上、別の会社、別のドメイン、別の国で同じやり方をやって同じ結果になるとはとても思えない。そこが、サイエンスとの大きな違いだ。
だとすると、ソフトウェア工学の論文の査読は何の基準で採用と不採用を決めるのだろうか。新規性なのか、論理の正当性なのか、それとも査読者の好みなのか。
それが自分には分からない。エンジニアリングの論文は、新規性のあるなしは審査基準になるとして、それ以外の部分では、雑誌の記事や書籍で言いたいことを言うのと何が違うのだろうかといつも疑問に思っている。
論文の難しい言い回しを使わず、先人の知恵を解説しながら、時代背景や条件を示した上で何をどうすれば期待する成果が出るのかを発表する場があり、読者がそれに納得できれば論文でなくてもいいのではないだろうか。
それに相当するのがシンポジウムにおける発表なのだと思うが、それと権威があると言われるソフトウェア工学の学会論文との差がよく分からない。
サイエンスにしてもエンジニアリングにしても、その功績は社会にどれだけ貢献するのか、したのかで評価されるのだろうと思う。
サイエンスの場合は、再現性やメカニズムの普遍性が証明できれば、評価の土俵に乗ることができる。しかし、エンジニアリングの場合は、どうだろうか。多くの支持を集めることができれば勝ちなのか。例えば、欧米の開発スタイルには合っていなくても、日本のプロジェクトには効果がある方法論があったとしたら、それは評価されないのか。(日本発でその後世界で評価された方法論はいくつかある)
今回のSTAP細胞の騒動を見て、サイエンスの世界は厳しくも客観的な評価によって成り立っていると感じた。
一方で、エンジニアリングの世界ではどのような評価をすればよいのか、公平で有効な評価の考え方が必要だと思った。自分はそれがCMMIのようなプロセスリファレンスモデルを使った成熟度の評価ではない、特に日本では有効ではないと思っている。
かといって代替え手段のよいアイディアを今持っている分けでもない。ただ、ソフトウェアエンジニアリングの論文評価がまさかその時代の流行によって左右されてはいないのだろうかという心配はしている。
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