2009-08-04

見える化、見せる化、そして、見られる化

かつてこのブログで『組込みソフトは「見える化」より「見せる化」』という記事を書いた。「見える化」というのはよくよく考えてみると隠れているものを見せたいのか、見られたいのかはっきりしない。実際の問題を抱えた現場にとって「見える化」ということばはいわばきれい事のように思える。

ソフトウェアの世界で「要求仕様が見えない」「設計思想が見えない」「アーキテクチャが見えない」「インタフェースが見えない」「どこが再利用されているのか見えない」「そのモジュールの開発やバグ取りにどれくらい費用がかかったのか見えない」といった問題が蔓延している。

かつて「見える化」より「見せる化」と言ったのは、プロジェクトサイドがポジティブに見えないものを見えるようにして、悪循環を脱するために踏みだすべきだという意味だった。

しかし、問題を抱えているプロジェクトは必ずしもポジティブであるとは限らない。いや、どちらかと言えばネガティブなことが多い。そういうプロジェクトは「見せる化」どころか「見せないように」「見られないように」さえ振る舞うこともある。苦しい内情を知られてより強いプレッシャーをかけられるよりも、現状を隠して取りあえず今降りかかっている嵐をしのぎたいという心理だ。

ただ、残念ながらこのようなアプローチを繰り返しているとプロジェクトは徐々に疲弊し、モチベーションが下がり、長期の視点で改善の活動ができなくなっていく。

そのようなプロジェクトに対して必要なのは、「見られるのが普通のこと」という状況に持って行くことだ。ソフトウェアエンジニアは誰もがある程度の権限を得ると、自分のやりたいようにプロジェクトを運営したいと思う。その気持ちは、外部から余計なことを言われないように知られたくないことは見えないようにしておこうという行動を誘発する。

そのような状態でプロジェクトを放置していくと、「やってることはやってるんだから、文句は言わせない」という非常にわがままなプロジェクトになってしまう。このようなプロジェクトに対して、問題点を指摘し是正や予防を要求するのはやっかいだ。

解決方法は、プロジェクトに常に「見られていることを意識させること」だ。どのプロジェクトもみな、同じような環境で見られているという意識が広がると、自分達の行動に自覚を持つようになるし、外部からの指摘に過剰反応しなくなる。

そういう意味で「見える化」ということばは、改善を受け入れるか、拒絶するかといった真剣勝負からほど遠い甘っちょろい台詞に聞こえる。「見せる化」は、プロジェクトの「文句あるなら言ってみろ」という自信の現れでもある。そんな自信がないプロジェクトに対しては「見られる化」を定着されなければいけない。

よっぽど強靱な精神力を持ったプロジェクトでなければ、常に見られているということが必要であり、見られているという状態は、自分達の行動に自信を持ち、責任を持つというステージに導くために役立つのである。

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