もともと日本人は高い品質を好み、その重要性を認識し、高品質の商品を作り出せる民族である。意識的に強いコントロールをしなくても、少しだけサジェスチョンを与えてあげれば何をすべきかを理解できるし、自然とやるべきことがプロジェクト内に伝搬する。別な言い方をすれば、低い品質をよしとしない、品質の低い商品をお客様に提供する行為は恥であると考え、そのような事態が起こったときは再発防止を強制されなくても自ら進んで行う国民性を持っている。
品質の低さや自分自身のミスを恥であると感じ、指示されずとも自浄努力を行う性質は、『アメリカ人と日本人』の記事で書いた日本人の「あたたかい人間関係の中のやさしい一員」という性質とも相性がよい。
このことは、品質の高い製品を生み出す非常に強力な日本のアドバンテージではあるが、そのような国民性を持たない土壌で生まれた品質向上の方策とうまく融合しない場合がある。
例えば、高品質を維持するための方法として、ISO9001などの品質マネージメントシステムの国際標準が存在する。そして、ISO9001の中で高品質を維持する取り組みとして、内部監査というアクティビティがある。
内部監査は品質マネージメントの教育を受けた監査員が定められたルール通りに組織が行動しているかどうかを組織内部の人間同士で監査し、ルールからの逸脱を見つけた際には是正を勧告して、是正処置が確実に浸透したことを監視するという活動だ。
この品質システムマネージメントのアクティビティを「低い品質をよしとしない、品質の低い商品をお客様に提供する行為は恥であると考え、そのような事態が起こったときは再発防止を強制されなくても自ら進んで行う」という気質の組織に適用するとどうなるか。
自ら気がついてユーザーに対する恥を回避する気質を持っているにもかかわらず、明示的にかつシステマティックに重箱の隅をつつくような感じで問題点を指摘され、是正が完了することを管理されると、自らの自浄努力を無視され、組織から自分達は信用されていないと感じ、やる気をなくしてしまう技術者がでてくる。
そして、その状態が定常化すると、品質マネージメントシステムが結果的に形骸化する。技術者サイドの心理としては、「自分たちは自分たちのやり方で十分に高品質を維持できている」「我々を信用しない(性悪説)のシステムを押しつけるのなら、表面上だけ繕っておこう」「(監査する奴らは)現場を知らないで理想論を押しつけようとする」といったものになっていく。
日本の組織において、ISO9001が形骸化しやすく、TQC(Total Quality Control)が成功しやすい理由は、このような日本人の気質からくるのだと考えられる。簡単に言えば、技術者を性悪説で眺める西洋的なアプローチは日本人の技術者のモチベーションを下げる傾向にあり、性善説に基づいた自浄・改善を促すTQCのようなアプローチは日本では有効性が高いのだと思う。
トヨタ自動車がISO9001を採用せずに、独自のトヨタ式改善アプローチを進めているのは、そのことがわかっているからではないだろうか。
ISO9001における内部監査のようなアクティビティを使って品質マネージメント力を高めていくには、責任と権限を明確していくことが不可欠であり、是正を要求されたプロジェクトや当事者が「自分が責められているのではなく、是正を要求しているのは品質に対して責任を持った部門や担当者が、ルールに基づいてその責任を果たしている」と考え、是正の指摘を「恥」と考えずにシステマティックに対応していく必要があるルーチンワークだと考えなければいけない。もともと、「創造性と個性にあふれた強い個人」の世界で生まれたシステムなので、品質に対して責任を持ったものがその権限を使って、是正や再発防止を指導しいるとサバサバと処理していかなければ、品質マネジメントシステムは正常に回っていかない。
ところが、日本の技術者は責任や権限が曖昧なままでも「あたたかい人間関係の中のやさしい一員」という性質を使って、製品開発を成功させ、サービス残業をしてでも、恥をかくような仕事をしたくない(裏を返せば満足のいく仕事をして認めてもらいたい、喜んで欲しい)と思いがんばる。
そうやってがんばって高品質の商品を作り上げているにもかかわらず、一見役に立たないように見えるルールを盾にルールからの逸脱を責められ、是正を求められると、組織上位層やQA部門への不信が生まれ、溝ができてしまう。ボトムアップで高品質を確立してきたという自負があればあるほど、トップダウンでかつ現場での自浄努力を認めないかのようなやり方に反発がおきる。頭の中では違うと分かっていても、是正の指摘に対して恥をかかされたと条件反射的に感じてしまうのだ。
このような事態に対して、自分は半分は現場サイドの肩を持ちかわいそうだと思いつつも、半分は現場サイドの方が間違っていると考える。
半分間違っていると考える理由は2つあって、「恥の文化」と「あたたかい人間関係の中のやさしい一員」の性質で高品質の組込みソフトウェアをアウトプットできるソフトウェアの規模には限界があるということと、グローバルな商売をやっていくのなら文化の違いを超えて自分たちが作った成果物の品質が高いことを世界標準の方法で説明する責任があると思うからだ。
「恥の文化」と「あたたかい人間関係の中のやさしい一員」という日本人の性質で高品質のソフトウェアを維持・開発できるのは、30万行くらいまでのソースコード量、30人くらいのプロジェクト規模だろう。
それを越えたら、好きとか嫌いとかいうことではなく、システマティックな品質マネジメントの方策をとらなければ組込みソフトを高品質に保つことは難しい。
また、日本の組織にありがちなのはソフトウェアの品質が高いという自信はあるが、どうして高品質なのかを論理的に説明できないということだ。日本人の気質が商品の高品質を保っているという説明では、世界は絶対に納得しないし、日本の中でも他の組織からは納得してもらえないであろう。納得してもらえるのは、そのプロジェクトメンバの顔や性格をよく知っているいる人だけだ。(要するに人的要素で品質を保っているということ)
今日本の組織で組込みソフトの品質に赤信号が点り始めているのは「恥の文化」と「あたたかい人間関係の中のやさしい一員」だけで組込みソフトの品質を維持している組織、ISO9001などの欧米から来た方策が形骸化しつつある組織、TQCのような問題点を自分自身で見つけて改善する活動が行われていない組織だ。
このような組織に必要なのは次のようなことだと思う。
【日本の組織が組込みソフトの品質を高めるために行うべきこと】
- 商品に求められる当たり前品質(潜在的価値)を認識すること
- ISO9001などのアクティビティの本質(顧客満足を高めること)を理解すること
- 日本人の気質と欧米人の気質の違いを理解すること
- 日本人の気質を活かした改善活動を行うこと
P.S.
今の若い人たちは、商品が当たり前にできていることの後ろにある技術や努力を見抜く力が弱いように思う。それは、商品のマーケティングや広告が進んで、ユーザビリティを向上させることに成功し、何も考えなくても商品を安全に安心して使えるようになったことの弊害だとも言えるが、その結果、商品を開発している作り手側の技術や努力が表面的には見えなくなってしまった。
しかし、当たり前品質(=潜在的価値)の存在に気づき、その品質を実現している技術を見抜き、それが当たり前に実現できているこに感動できるエンジニアにならなければ、潜在的価値を高める技術を身につけるモチベーションにつながらないと思う。
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