2015-02-01

自分の意思は普段の習慣によって決まっている

池谷祐二さんの本を読んだときに、自分がこれまで感じていた感覚の論理的な説明を見たような気がした。

それは何かを論理的に判定しようと考える前に、感情がわき上がってきて嫌悪感や逆に強い同意の想いが全身を走ることがあり、そういうときは必ず後から論理的な理由を付けることができるのだ。

このことを池谷さんは次のように説明している。

【『脳には妙なくせがある』 22章より引用】

自由意思は脳から生まれない

意思は脳から生まれるのではありません。周囲の環境と身体の状況で決まります。これが私の見解です。そして、この考え方こそが本書の通奏低音となっています。




偏見や独断におぼれることなく、明快な理論や分析にもとづいて、公平で合理的な判断ができることは、基本的行動の理想像と考えられています。しかし、そもそもヒトにそんなことが可能でしょうか。

合理的に決めているつもりでも、実際には「ただ、なんとなく」という漠然とした感覚が先行していることも少なくないはずです。

おそらく各個人の脳に「思考癖」があり、その癖が、目の前の情報への反応や解釈に偏向をもたらしているのでしょう。極言すれば、私たちの反応はすでに決まってしまっているという言い方さえできるかもしれません。

「ヒトは自分自身に無意識であるという事実に無自覚である」とは、ヴァージニア大学のウィルソン博士の言葉です。私たちは自分の心がどう作動しているかを直接的に知ることはできません。ヒトは自分自身に対して他人なのです。

こうした研究結果が明らかになればなるほど、意識上の自分をあまり過信せずに、謙虚にならねばと襟を正す思いがします。

と同時に、自分が今真剣に悩んでいることも、「どうせ無意識の自分では考えが決まっているんでしょ」と考えれば気が楽になります。そう、そもそも私たちは、りっぱな自由など備わってはいませんん。脳という自動判定装置に任せておけばよいのですから気楽なものです。

もちろん、自動判定装置が正しい反射をしてくれるか否かは、本人が過去にどれほどよい経験をしてきているかに依存しています。

だから私は、「よく生きる」ことは「よい経験をする」ことだと考えています。すると「よい癖」がでます。

「頭がよい」という表現には多義性がありますから、その定義を一概に論じるのはむずかしいのですが、私は頭のよさを「反射が的確であること」と解釈しています。その場その場に応じて適切な行動ができることです。苦境に立たされても、適切な決断で、上手に切り抜けることができる。コミュニケーションの場では、瞬時の判断で、適切な発言や言葉遣いができる。そんな人に頭のよさを感じます。

このような適切な行動は「反射力を鍛える」という1点に集約されるのです。そして反射を的確なものにするためには、よりよい経験をすることしかありません。

【引用おわり】

池谷さんが言っていることがに興味を持たれた方は『単純な脳、複雑な「私」』も読んで欲しい。自分は、ずっと前から池谷さんの言う「反射力を鍛える」ことが「よい経験をする」ことから得られて、そのことが結果的に論理的な思考に結びつき、問題解決能力を高めるのではないかと感じていた。

だから、一つ一つの仕事をこなしていくときに、「いい仕事をした」と言われるように、手の抜かず、後から振り返っても満足がいくような仕事をしてきたつもりだ。その経験が反射力を鍛えたように思う。

ただ、一方でその「思考癖」は自分が手を抜かないぶん、他人の甘えやほころびも許さないという反射が身についてしまった可能性もある。

池谷さんは、意識と無意識は乖離していて、無意識の自分ことが真に姿であるとこの本の中で語っている。意識の中で「他人に優しくしよう」と思っても、無意識の自分が「許さなければ」許さないというのが本当の自分だという。

そこを変えたいのなら、自分の失敗やちょっとしたミスを深く後悔せずに「許す癖、経験」を積み重ねて、反射的にでるまで繰り返す必要がある。

それによって「判断が鈍った」と感じることになるかもしれないが、どっちがいいかは意識下の自分と無意識下の自分の折り合いで決めるのだろう。

ちなみに、この本はスピリチュアルな内容ではなく、サイエンスをベースにした科学読み物である。

意識下の自分と無意識の自分の間に乖離があるような感覚がある方は、この本を読んでみることを薦めたい。それほどおかしなことではないということが分かるはずだ。

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