2007-07-24

こころの処方箋

元文化庁長官で臨床心理学者の河合隼雄氏が19日午後2時27分、脳梗塞のため死去した。

河合隼雄氏は 1928年、兵庫県生まれ。京都大理学部数学科卒業後、米国留学を経て、1962~1965年にスイスのユング研究所に留学し、日本人で初めてユング派分析家の資 格を取得した。帰国後、ユング心理学を基礎にした心理療法の「箱庭療法」を完成・普及させ、日本にユング派心理療法を紹介した。

私的諮問機関「21世紀日本の構想」懇談会の座長や、教育改革国民会議委員など政府関係委員を歴任し、2002年1月、史上3人目の民間人として文化庁長官に就任しており、テレビでもよく姿を見ることがあった。

河合隼雄さんは人を包み込むような雰囲気を持っており、その著書の多くを読んだ。今回は、なぜ、河合隼雄氏の本を読んでいたのかを書きたいと思う。

プログラムは正確でないと動かない、曖昧なままでは期待したような動きにはならない。C言語などの高級言語ではやや曖昧さを受容するようにもなったが、アセンブラの時代などでは一命令でも間違っていればまったくプログラムが動かなかった。

そのような状況下ではソフトウェアエンジニアはロジカルな思考を求められる。ロジカルであればあるほど間違いの少ないプログラムを書くことができる。逆に言えば、いい加減な性格の人はソフトウェアエンジニアには向かない。

地道にこつこつこつこつとプログラムを書き論理的な問題点や、仕様が曖昧な部分があるとすぐに質問しすべてクリアにしてから前に進むような性格のエンジニアがプログラマに向いている。ことプログラマという職種に限って言えば、完全主義者であればあるほど早くて正確な仕事をし優秀であると評価される。

ところが、人間の脳は本質的にはロジカルな思考システムではない。脳神経学的に言えばコンピュータが0か1かの判断をするのに対し、人間の脳は多数決で判定を下す。また、その多数決に使われる入力はいつも同じではないため、必ず一定の結果になるとは限らない。

ようするにソフトウェアエンジニアは仕事上ロジカルであることが求められているにもかかわらず、本質的にはロジカルではないのだ。

そのギャップはときに社会生活を送る上で障害を起こすことがある。コンピュータがロジカルであるが故に生身の人間もロジカルな思考であるかのように勘違いしてしまうのである。その勘違いが進むと、人間もロジカルにコントロールできるという錯覚に陥ってしまう。そして、現実の人間はまったく論理的ではないため、コンピュータのように正確に予測したようには動かず、予測と現実が異なるためそのギャップに苦しむことになる。

例えば、野球で1点差で負けている試合、9回2アウト、ランナー2、3塁で最後のバッターを送り出す監督は選手に何というと成功に結びつくか?

「何が何でもここでヒットを打って逆転しろ」というのが監督の本音だ。でも、ベテランの監督なら「三振してもいいから思い切って振ってこい」などと言うだろう。三振しては困るのだがプレッシャーを与えないために、まったく逆のことを言った方が結果がよかったりする。人間とはそんなものだ。

また、ソフトウェアが大規模複雑化すると、ソフトウェアプロジェクトには多くのソフトウェアエンジニアが関わり合う。ロジカルでない人間が集まってロジカルにプログラムを作らなければいけない。そんな状況で問題が起こらないはずがない。このブログで顧客満足を高めることが大事と言っているのは、ロジカルと非ロジカルの矛盾を抱えながら組織やプロジェクトや個人がともに成功するためには、共通の価値観である顧客満足を高めることを目標にすれば、非ロジカルな部分のずれを修正して方向性を一つにできると考えるからである。

さて、ソフトウェアエンジニア個人が河合隼雄氏の本を読むとどんなよいことがあるのか。

それは、若いとがった気持ちで日々の仕事の黙々と取り組んでいるソフトウェアエンジニアがいるとする。自分だけの範疇ではこのような技術者はいい仕事をしている場合が多い。ところが、このような論理的でとがった気持ちをずっと解除しないでいると、複数人で共同作業をする場面やプライベートな時間で人と接するときに空回りしたり、他人を精神的に傷つけたりする。

河合隼雄氏の本をこんなエンジニアが読むとこのようなとがった気持ちを鈍らせて、所詮人間なんてそんなもんなんだということを気づかせてくれる。

河合隼雄氏の著書の中で読みやすく、もっともコンパクトな文庫本が『こころの処方箋』(420円)だ。こころの処方箋の中の一節を紹介したいと思う。

こころの処方箋-こころの中の勝負は51対49のことが多い- より】

 中学生や高校生のなかには、私のところに無理矢理に連れられてくる生徒がいる。たとえば、登校拒否の子など、心理療法家のところなど行っても仕方ないとか、行くのは絶対嫌だと言っているのに、親や先生などが時にはひっつかまえてくるような様子で連れて来られる。嫌と思っているのをそんなに無理に連れてきても仕方がないようだが、あんがいそうでもないところが不思議なのである。

 あるとき、無理に連れてこられた高校生で、椅子を後ろに向け、私に背を向けて座った子が居た。このようなときには、われわれはむしろ、やりやすい子がきたと思う。こんな子は会うやいなや、「お前なんかに話しをするものか」と対話を開始してくれている。そこで、それに応じて、こちらも「これはこれは、僕とは話す気が全然ないらしいね」などと言うと、振り向いて、「当たり前やないか。こんなことしやがって、うちの親父はけしからん・・・」という具合に、ちゃんと対話がはずんでゆくのである。

 こんなときに私が落ち着いていられるのは、心のなかのことは、だいたい51対49くらいのところで勝負がついていることが多いと思っているからである。この高校生にしても、カウンセラーのところなど行くものか、という気持ちの反面、ひょっとしてカウンセラーという人が自分の苦しみをわかってくれるかも知れないと思っているのだ。人の助けなど借りるものか、という気持ちと、藁にすがってでも助かりたい、という気持ちが共存している。しかし、ものごとをどちらかに決める場合は、その相反する気持ちの間で勝負が決まり、「助けを借りない」という方が勝つと、それだけが前面に出てきて主張される。しかし、その実はその反対の傾向が潜在していて、それは、51対49と言いたいほどのきわどい差であることが多い。

 51対49というと僅かな差である。しかし、多くの場合、底の方の対立は無意識のなかに沈んでしまい、意識されるところでは、2対0の勝負のように感じられている。サッカーの勝負だと、2対0なら完勝である。従って、意識的には片方が非常に強く主張されるのだが、その実はそれほど一方的ではないのである。
 このあたりの感じがつかめてくると、「お前なんかに話しをするものか」などと言われたりしても、あんがい落ち着いていられるのである。じっくり構えていると、どんなことが生じてくるか、まだまだ分からないのである。

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【引用終わり】

河合隼雄氏のような包み込むような語り口で人間の心理は1か0では判断できないと言ってくれる人は他にはいないと思う。河合氏が亡くなって生の声を聞くことができなくなったのがとても残念だが、氏が残した言葉は本の中で生き続けており、ふとたまに読み返すとコンピュータの思考になっている自分を現実の世界に引き戻してくれるのである。

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