2007-05-26

カイゼンを実現できる多能工を目指そう!

R30氏のブログ R30::マーケティング社会時評 の記事『ポリバレント=多能工って言えばいいんじゃね?』を読んで、トヨタ生産方式の強みについてどんな人材がカイゼンに向いているのかイメージが沸いた。

「Polyvalent:ポリバレント」とは本来は科学用語で、日本語の意味では「多能工」ということだそうで、「サッカーの日本代表にはポリバレントな選手を登用すべきだ」といった感じで使うらしい。この例では、ひとつのポジション(役割)だけでなく、いろいろなポジション(役割)をこなせるような人材が必要という意味だ。

さて、R30氏はポリバレント=多能工について次のように書いている。

【R30 マーケティング社会時評 「ポリバレント=多能工って言えばいいんじゃね?」より】

 ものづくりの世界での「多能工」の意味には、まず作業負荷の平準化がある。つまり、ある工程の作業ができる人というのがライン内に複数いることで、その工程の作業負荷が一次的に増えてもそれを前後の工程の人が分担できる、だから生産ライン全体で見るとボトルネックが生じにくい、というのがそれだ。

 ただ、多能工のメリットはそれだけでなくて、複数の工程をこなせるため仕事に飽きが来ない、複数工程にまたがる「カイゼン」の提案ができる、そして熟練すれば単工程の作業をこなせる人よりも多くの人から尊敬を集められる、といったこともある。言うなれば作業者のモチベーションそのものを高めることができまっせ、というのが多能工化の本質的な価値である、とトヨタ生産方式の中では言われているわけだ。

【引用終わり】

多能工の特長としてまとめると次の4つになる。
  1. 工程の作業負荷が一次的に増えてもその前後の工程の人が分担できる。
  2. 複数の工程をこなせるため仕事に飽きが来ない。
  3. 複数工程にまたがる「カイゼン」の提案ができる。
  4. 熟練すれば単工程の作業をこなせる人よりも多くの人から尊敬を集められる。
今、大規模・複雑化した組込みソフトの世界では複数工程にまたがる「カイゼン」の提案ができるエンジニアが少なくなっている。

もともと小規模なプロジェクトで組込みソフトの開発を行っていたころは、上記の4つは誰が指示するでもなく組織の文化として浸透していた。だから、TQC活動(カイゼン活動)も特に違和感なく現場に受け入れられていた。

ところが、作らなければいけない組込みソフトが大規模・複雑化し、設計・開発工程も長く、複雑になってくると、技術者の目標として多能工になるという意識がだんだん薄れてきた。

開発日程の縛りからくる締め付けが組込みソフト技術者から余裕を奪ったことが、多能工になりたいと思う気持ちを萎えさせる最大の要因だと感じる。

余裕がないから、自分の役割だけをこなせばいいやという感覚がプロジェクト内に広がってしまう。このブログサイトで再三書いているように、日本人の技術者は責任と権限が曖昧なまま作業を進める。そのため、責任が明確になっていない状態で自分の殻にこもられると、セクション間のインタフェースの認識違いなどが生じる。そうするとインタフェース仕様の調整などを誰かがボランティアでやらないといけない。

多能工を目指すでもなく、(人に指導できるくらいの)専門性があるわけでもない非常に中途半端な技術者が増えてくると当然「カイゼン」は進まない。

組込みソフトにおける多能工とは組込みアーキテクトのことだと思う。組込みアーキテクトは、要求と制約のトレードオフをしてアーキテクチャの最適化を図る必要があるため、要素技術の知識も必要だし、市場要求についても分析できないといけない。

組込みソフトの世界で多能工(=組込みアーキテクト)になれればカイゼンの糸口が見えるようになるし、自分自身のモチベーションにつながる。

以前、このブログで日本のソフトウェアエンジニアも責任と権限を明確化して仕事をしないといけないと書いたが、だからといって何かの技術の専門家に留まれとは言うつもりはない。責任と権限は意識しつつも、自分の周りの技術にも興味を持ち、「それは自分の領域ではない」とった壁を作らずに多能工を目指すべきなのだ。

それを実現するためには、エンジニアの中に心の余裕がないといけない。しかし、現実的には仕事に追われる日々を過ごしている技術者が多いだろう。でも若いうちに苦労して多能工的な幅広い知識とスキルを身につけておくと、徐々にその知識・スキルが生きてきて工程やアーキテクチャのカイゼン点が見えてきて、カイゼンを実行することによって作業効率を高めることが可能になり、さらにカイゼンを進めることができるという好循環のステージに入る。プロジェクト規模は小さかったけれど、自分はこの好循環のステージを経験したことがある。今では、どうしたら悪循環に陥っているプロジェクトを好循環に変えることができるのか試行錯誤しているところだ。まだ、結論はでていないが、実感としてプロジェクトメンバの中で多能工を目指す姿勢を持ったエンジニアがいることが条件であると感じている。

ところで、R30氏は『ポリバレント=多能工って言えばいいんじゃね?』の記事のなかで、多能工を嫌う人種として専門家ホワイトカラーのことをぼろかすに言っている。(R30氏のいつもの語り口なので、特にぼろかすではないのかもしれないが・・・)

【R30 マーケティング社会時評 「ポリバレント=多能工って言えばいいんじゃね?」より】

・・・いわゆる「専門家ホワイトカラー」系の世界の住人である。この方々は1つの領域に深く深くはまっている人にこそ最高の価値があると思っていて、複数の領域を股にかけて何の専門家なのかよく分からないぐらいいろいろな領域に足を突っ込んでいる人を、ことさら卑下するさげすむ傾向がある。

 「専門性」という名の下に隠蔽されたこれら「専門家」の視野狭窄、柔軟性のなさ、そしてもっとぶっちゃけて言うと「使えなさ」みたいなものは、最近とみに深刻だと思う場面が増えているのだけど、当の専門家の間にはそういう世間の評価に対する反省というのがまったくないというのがさらに深刻ですな。
要するに、知的退廃というヤツでしょうか。

【引用おわり】 (この後のくだりは過激すぎてちょっと書けません)

R30氏は、複数領域の専門性を併せ持っている「多能工」が高い価値を生み出すことができ、純粋学問と社会の間の「実務系学問」の領域くらい、多能工専門家の評価をもっと高くする仕組みがあっていいのではないかと書いているが、自分もまったくそのとおりだとおもう。

専門領域を横断して、要求と制約を最適化する多能工は価値の高い商品やサービスを生み出すことができる。しかしながら、そのような多能工はアカデミアの世界では評価されないし、多能工が解決する領域を研究する学会(たとえば失敗学など)は、専門領域の学会よりも下に見られているように思う。

ちょっと話がずれるが、学会やシンポジウムに論文を投稿する際のしくみをご存じだろうか。投稿論文はすべてが採用されるわけではなく、論文の査読者が投稿論文を査読しふるいにかけ、査読に通ったものだけが採録される。

通常、査読はその道の専門家数名が行う。大抵はアカデミアが行う。そして、投稿論文は採録される場合もされない場合も、査読者が“匿名”の状態でコメントが付けられ、投稿者に通知される。

ここで自分が引っかかるのは、なぜ査読者の名前を伏せるのか? という点だ。自分が投稿するときは多くの場合、多能工的なアプローチが解決する方法論なのだが、それに対する特定領域の専門家のコメントがしっくりこないこともある。このようなときは、コメントの真意を聞きたいこともあるし、場合によってはディスカッションしたいときもある。そもそも、ほめるにせよ、批判するにせよ、匿名でコメントをするというところに釈然としない何かがある。

専門家としてのプライドや誇りがあるのなら名前を隠す必要はないし、その後の意見交換で双方ともに有益な情報を得ることができるかもしれない。もしかして、「投稿者は査読者よりも下だからコメントに反論するなどもってのほか」、だけど、「専門以外の領域横断的なことを聞かれても答えられないから名前を出したくない」のでは、と勘ぐりたくなる。

ともあれ、価値の高い商品やサービスを生み出さなければいけない組込み製品の開発組織では、多能工を目指すでもなく、専門性もないような技術者を作らないようにしなければいけないし、専門領域に閉じこもっている技術者はカイゼン力が弱いということを認識しつつ、多能工でありながら自分の役割もキッチリ果たせるような技術者の育成に努めなければいけない。
 

0 件のコメント: