2010-12-05

やっぱり手帳がいい

斎藤孝氏の著書『15分あれば喫茶店に入りなさい』には、喫茶店に持ち込んではいけないものとしてノートパソコンが挙げられているそうだ。

喫茶店の15分間という時間と空間を作るとアイディアが生まれるという。生まれるというよりは、アイディアを生むための時間を作るということだろう。

時間と空間を作るのなら家でも同じと思うかも知れないが、家には考え事をさせないような誘惑がたくさんある。喫茶店に入ってしまえばコーヒーを飲む間の時間は他のことはできない。

アイディアというものはふと思いついて覚えておけるだろうと思っていても、数時間もすれば忘れてしまうものだ。ということで自分はいつも手帳を持ち歩いている。

そもそも、PDA として SONY の CLIE を持っていたのだが、SONY のPDA市場からの撤退という裏切りとともに結局 PDA は使わなくなってしまった。 CLIE を使わなくなってから、もう一度原点に戻って手帳に切り換えた。この手帳にしてからもう5年になる。

今は iPod Touch があるけれど、これは手帳の替わりにはならない。ふと思いついたアイディアをささっと書き留めるには手帳が一番だ。この手帳を選んだ理由はカレンダーとノートだけのシンプルな作りで、透明のジップ付きのカバーにペンを入れられるからだ。値段も\1000円以下。毎年この時期になると東急ハンズに来年の手帳を買いに行く。

ただ、カレンダーは google カレンダーで情報をクラウド上に共有できるため iPod touch のカレンダーを使うようになった。でも、アイディアを書き留めるノートとしての機能は手帳にはまだまだ勝てない。

いろいろな電子機器を使うようになった今でも手帳は手放せないし、毎年来年の手帳を買いに行くということも考えようによっては楽しいことだ。

P.S.

SONY には CLIE では裏切られたが、薄型テレビの BRAVIA では感心している。起動時間が早い。Linux の立ち上がりには時間がかかっているがテレビを見るだけなら Linux の起動に関係なくすぐに見える。

同様にブルーレイディスクレコーダーの起動も「パッと起動!」とCMで強調している。ユーザーが本当に求めていることカタログスペックには出にくいことに着目して実現してくれた。今のDVDレコーダーの起動時間も遅くてうんざりしている。次に買い換えるときは SONY の Blueray にしようと思う。

2010-11-21

新人と就活

今年の新人達がプレゼンするのを聞いた。ものすごくうまい。本当に信じられないくらいうまい。最近は個人情報ということで、どの大学の何を専攻してきたのか、学卒か院卒かも公開されないからプロフィールがまるでわからないが、プレゼン慣れしているのは確かだと思う。

あまり人前であがらないというのは現代的な特徴かもしれないが、観客が自分をどのように見ているのかを客観的に把握できているように見える。

就活で鍛えたのだろうか? 最近の就職は非常に狭き門となっているらしく就職を控えた学生の諸君は大変だという話しをよく聞く。

内定の出ない学生は何が間違っているのか~学生、企業、大学、親がすれ違う悲惨な現状』を読めば大変な現状が分かる。

しかし、日本の企業はどうして「新卒」にこだわるのだろうか。これまでずっと同じシステムでやってきたから、いまさら変えることに不都合があるのか。能力主義、成果主義に切り換えたといいながら、実は年功序列が実態なので新卒という枠を外すと問題が生じるのだろうか。

日本の企業は大学、新卒とう枠を設けることで、自分達が欲しい人材がどのような人間であって欲しいか考えることから逃れていると思う。

ようするに新卒であれば世代という観点では同じ評価指標で考えられる。その土俵で人選すれば選びやすい。ところが、新卒という条件を外したら、もっと評価指標が増えるし、また、どのような人材を求めているのかをもっと明確にしなければいけない。

その組織にあった人材ということだけではなく、今、不足している、これから始めようとする事業に有効な能力、ポテンシャルを持った人材を選らばなければいけなくなる。というよりは選べるようになるのだ。

キャリア採用と似ているが、キャリアは十分ではないだろうから、人材を必要とする事業やプロジェクトに投入する際にポテンシャルの高い人を探さなければいけない。今まで以上に人事部門が事業部門と情報を共有し、どんな人材が必要か常日頃からディスカッションしておかねければいけない。

新卒しか採用しないのは、人事部門が新卒という枠でしか技術者を評価できないからではなだろうか。

その組織に、その事業に、そのプロジェクトに必要な人材がどのような者か、どのようなポテンシャルを持っているべきかを考えられるようになれば、新卒にこだわる必要がない。

ちゃんとそのコンセプトを示し、いろいろな経験をした広い範囲から人材を選べるはずだろう。

プレゼンがうまいのがもしも就活のために訓練したのであれば、それもよいが、エンジニアとして組織が求めているポテンシャルが高いのかどうかはそれだけでは分からない。

就職する側の企業が変われば、大学の姿勢や受験も変わるのではないかと思う。現在の就職状況では、一芸に秀でた人材が埋もれてしまわないか、日本ではチャンスは新卒の一回しかないのかどうか心配になる。

2010-10-27

ソフトウェア品質を高く保つには哲学が必要

前回の記事『商品リスクを低減するには哲学的思考が必要』に関して、もう一回同じようなことを書いた文章がありますので、ご一読ください。

誰がどこに書いた文章かはご想像にお任せします。

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明治大学理工学部に向殿政男先生という方がいます。

著書のひとつ『安全設計の基本概念

向殿 政男
1965年明治大学工学部電気工学科卒業。1967年明治大学大学院工学研究科電気工学専攻修士課程修了。1970年明治大学大学院工学研究科電気工学専攻博士課程修了。明治大学工学部電気工学科専任講師。1973年明治大学工学部電気工学科助教授。1978年明治大学工学部電子通信工学科教授。2005年経済産業大臣表彰受賞(工業標準化功労者)。2006年厚生労働大臣表彰受賞(功労賞)。明治大学理工学部情報科学科教授。明治大学理工学部学部長。明治大学大学院理工学研究科委員長。ISO/TC 199国内審議委員会委員(元主査)。安全技術応用研究会会長。機械の包括的な安全基準に関する指針の改正のための検討委員会委員長。次世代ロボット安全性確保ガイドライン検討委員会委員長ほか(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

その、向殿先生が、日経ものづくり 8月号 で日本のものづくりの歴史的背景を次のように語っています。

【日経ものづくり 8月号 特集 ソフトが揺さぶる製品安全より引用】
信頼性一本やりでは厳しい

明治大学理工学部情報科学課教授の向殿政男氏によれば、そもそも日本の企業は、信頼性を高めることで安全を確保しようとする傾向が強いという。しかし、前述の流れに従えば、そうした考え方は特に修正を迫られることになりそうだ。

「信頼性を高めることで安全を確保する」とは、製品を構成している個々の要素の信頼性をひたすら高めることによって、異常事態が発生する可能性をゼロに近づけようとする考え方である。構成要素に故障がバグがあることは前提としないので、これは「フォールト・アボイダンス」と呼ぶ考え方だといえる。

日本の企業はこれまで、この考え方で実績を積み上げてきた。「日本製品は壊れにくい」という評価は、まさにこのフォールト・アボイダンスを追求してきたたまものといえる。もともと日本の製造業は、欧米で確立された製品の改良設計で成長してきたという経緯がある。製品全体のアーキテクチャが所与の中、改良設計という形で信頼性を高めることに力を注いできたのは、ある意味必然だった。

さらに向殿氏は、信頼性は定量的・純技術的な概念であり、技術者にとって扱いやすい指標だったことも、日本の企業がフォールト・アボイダンスに傾倒した理由に挙げる。「安全を定義するには、社会が許容するリスクとは何かといったことも考えなければならないので、どうしても哲学的な判断が必要になる。それに比べると、信頼性は技術者にとってとっつきやすい概念だった」(同氏)。

だが、ソフトの役割が増すにつれ、フォールト・アボイダンスだけで安全を確保するのは厳しくなってきた。前述の通り、ソフト自体の信頼性を高めるのが困難な上、ソフトやハードといった構成要素同士の関係も複雑になっていることから、構成要素の故障やミスを認めない前提そのものに無理が生じているのだ。

そもそも信頼性(壊れにくいこと)と安全は全く異なる概念である。だが、前述のような経緯から、信頼性を高めることと安全を確保することがほとんど同じ意味になってしまっていたのである。
【引用終わり】

この「今後の安全設計には全体最適の発想が必要であり、安全を定義するには社会が許容するリスクとは何かを組織が考えなければならず、そのためには哲学的判断がいる」、というところに強く共感します。

ようするに、ユーザーリスクとその対策は考えれば考えるほど際限がないので、コストや開発時間とのトレードオフでどこまでやるかを決断しなければならず、その決断をするためには安全や品質に対する哲学が必要だということです。

安全や信頼を実現している「当たり前品質」は、カタログやスペックシートには現れないため、長い間商品を使ってもらったときにお客様から伝わってくる「品質がいいね」という感想や、クレームの少なさなどでしか表面に現れてきません。

クリティカルデバイスではそこが命でもあるので、技術者は当たり前に出来ていることの重要性や、リスクを軽減する対策の大切さは言われなくても分かっていました。

それが、近年、リスク分析の結果や取扱説明書を見ていると、表記上の対策で禁忌・禁止事項として書いておけば、設計上の対策はいいやという技術者が増えてきたようにも感じています。そうなってきた理由のひとつは商品が実際に使われる現場の現実を知らない技術者が増えてきたからでもあります。

これだけ複雑化してしまった製品ソフトウェアに対して、安全に対して哲学を持ってどこまでやるかを決断しなければならなくなっているのです。逆に言うと製品の品質や安全に対して無知であったり、哲学(ポリシー)がない技術者が作る商品、ソフトウェアは危険であると言えます。

そして、技術者に哲学(ポリシー)があっても、組織の上位層に安全や品質に対する哲学がなく、商品のリリースの時期だけを何とかしろと言い、技術者の哲学(ポリシー)がポキッと折れてしまったり、考えてもどうにもならず辛いので考えないようにしている人はいると思っています。

簡単に言えば次のような質問に間髪入れずにはっきり答えられる技術者が少なくなってきていると思うのです。

・自分の商品の品質に自信があるか?
・自信の根拠は何か?

これらを聞くと怒り出す技術者はまだましで、しれっと「自分の守備範囲ではないんで」などと言う人が出てきたらもうおしまい。

そういう人たちで構成された組織において、製品の信頼や安全はプロセスや組織的システムのみで確保しなければならず、そのためには責任と権限が明確な組織的階層構造と徹底的な設計管理が必要です。

そうでない、プロセスやシステムだけで日々の仕事をやっているんじゃない組織において、もし、安全や信頼について自信をもって答えられる技術者、管理者が少なくなっているのだとすると、機器やサービスの安全や品質に対する哲学が個人個人に対しても、プロジェクト、部門にも必要です。

安全や信頼に関する哲学が、すでに組織の中に醸成されているのなら、職制で指揮命令するだけで高品質を維持できるかもしれませんが、安全や信頼に関する哲学が醸成されていない、廃れてしまったのなら意識改革から始めなければ高品質は達成できないと考えます。

これはロジックではなく、哲学やポリシーの問題です。なぜなら、当たり前品質という見えない品質を実現するために、どこまでやるかは常に自分との戦いであり、他人から言われた通りにするだけなら、納期のプレッシャーに負けて、品質は低い方向に傾くからです。

「開発が遅れているかどうか」を聞くのもいいですが、それと同じかそれ以上の熱意、頻度で「自分の商品の品質に自信があるか?」と問う人が増えないと高品質を維持していくのはムリだと思います。

以上