平成26年8月27日に父が亡くなった。86歳だった。体はかなり弱っていたものの、お盆休みに会いに行ったときはちゃんと話もできていた。腸閉塞の疑いで、8月26日に病院に緊急入院してから翌日の夜中に亡くなるまで期間が短かったので家族にとっては急なことだった。
父が亡くなった日の27日は朝から病院に行き、主治医の先生に状況を聞いた後、いつ容体が変わるか分からないのでその日は病室に泊まり込むつもりでずっと父に付き添っていた。
そして何かの運命だと思ったのは、その病院で使われていた生体情報モニタが自分の会社の製品だったということだ。父のバイタルサインを計測していた機器は自分が開発に携わった製品の後継機種だった。プロジェクトチームの面々とは顔見知りで今でも支援する立場にある。
そして、そのベッドサイドモニタからナースセンタのセントラルモニタに生体情報を送信する送信機は自分がかつて担当した製品だった。
父は意識はあるもののちゃんと会話ができる状態ではなかったので、面会に来た高齢の母が帰った後ずっとモニタの画面を眺めていた。
計測しているバイタルサインは心電図とSpO2(動脈血酸素飽和度)と呼吸(インピーダンス方式)と非観血血圧だった。SpO2はヘモグロビンが酸素をどれだけ運んでいるかを見る指標で、指で計ることが多いのだが、父の場合は耳たぶにセンサが付けられていた。指につけておくと外そうとしたのかもしれない。末梢の血液循環が悪くなってくるとSpO2の正確な計測が難しくなってくる。酸化ヘモグロビンの光の吸収量が異なる赤色光と赤外光を透過させてそれらの波形から酸素飽和度を測るため、末梢血管の脈動が小さいと正確な計測が出にくい。健常人なら95%くらいの値であるSpO2値が、酸素吸入していても父の値は90%を切っており、信号が小さいため感度が最大でノイズが多く波形がフラフラしていた。
血圧は30分に一回、上腕に巻かれたカフに圧力がかかり測定を繰り返す。腕も細くなっているし、体動もあるのであまり安定はしていなかった。
もっとも安定していたのは心電図だった。心電図は体表に貼った電極から微弱な電位の変化を計測する。生体情報モニタのパラメータとしては最も歴史が古く、体動にも強く、安定して測定するための技術も成熟している。
死期が近づいてくると心電図に不整脈が現れるようになり、重篤な不整脈を検知したことを表すアラームが鳴る。ちなみに、重症な患者の場合、設定したバイタルサイン計測値の上下限を超えることが頻繁にあるのでアラームはほぼ鳴りっぱなしの状態である。重篤かどうかはアラームインジケータの色で分かる。
父の場合も盛んにもぞもぞと動いていた時期を過ぎ、夕方になって静かになったなと思ってから、数時間後に不整脈が現れ始め、それまで安定的に拍動を打っていた心電図が徐々に乱れ始めてきた。自分も夜勤の看護師さんも状況は把握できており、そのまま息を引き取るまで見守っていた。
老いて死ぬのは自然の摂理だからなのだろうか、なぜだか冷静に状況を見ることができている自分がいた。
こんなプライベートなことをこのブログに書き残したのは、残しておかなければいつの日か自分の記憶が薄れて無くなってしまうかもしれないと思ったのと、記憶あるうちに残しておかなければ自分の子供達がいつの日か父が自分の父親が死ぬときに何を感じたのか知りたいと思うかもしれないと感じたからだ。
父は、数年前に約20名ほどの親しい友人のリストを作りもしもの時にと自分に託していた。そのときはまだピンピンしていたので話半分で聞き流していたが、本当のそのリストを使う時がきて、葬儀は近親者だけで済ませてくれというメモを見て、伝えるべきことを残してくことの大切さを感じた。
父は、満州で自分の父親と兄弟の何人が戦死して遺体が収容できず、きちんと葬式をあげることができなかったので、自分の時も葬儀は身内だけにして、親しい方には後から自分の死を知らせて欲しいと書き残していた。
そして、葬儀が済んだ後で20名の方達にそれまでの経過を記したはがきを出した。すると、満州時代からの父の友人で三十年あまり同窓会の幹事をされていた方から、父との思い出が書かれた便せん三枚の直筆の手紙がはがきの差出人である自分宛に送られてきた。その手紙をいただいた時には、後に残された者としてきちんと返信をしなければいけないと思った。残された者が果たさなければいけないことはいろいろある。
父の死後のいろいろな手続きや返礼などまだまだやることはあるのだが、今自分のこととして振り返ってみると自分も一生の中で社会や家族に何を残せるかを考える必要があるように思えてきた。
ある人と自分の仕事の行き詰まりについて飲みながら話をしていたときに、自分の本業とは別の部分での価値の創出や社会の貢献についても自分の中で評価してもいい、評価した方がいいという話をした。サラリーを稼ぐための仕事だけがすべてではないだろうという話だ。
会社では生きるために金を稼いでいるかもしれないが、会社の仕事は別に社会貢献したときも目に見えない価値が生みだれており、それも自分の中で積み重なっていくのではないかということだ。
評価されるために活動している訳ではないが、自分自身のモチベーションを維持するために創造した見えない価値を作り出したことを誇りたい気持ちはあるし、また、それが見えるようになれば自分にとってハッピィでもある。
自分はたまたま医療への貢献に結び付く仕事をしている。しかし、もちろんそこに直結しないさまざまなタスクも抱えている。そういった仕事と、組織から工業会のために行う仕事と、コミュニティでの活動などさまざまなことについて限られた自分の時間を使っている。
今現在の最大の悩みは人生の折り返し地点を通過し限られた自分の時間を何にどれだけ使うべきかということだ。残された時間は伝えたいことを残し伝えるために使うべきではないかと思っている。
平成26年8月1日に創設されたヘルスソフトウェア推進協議会のセミナーでは、ヘルスソフトウェア開発に新規参入を考えている組織に向けて、この一枚のスライドを使ってガイドライン適合のコンセプトを説明している。
ガイドラインに適合することが目的なのではなく、優良なヘルスソフトウェアをそれを必要とする個人や医療機関に提供し、社会に貢献することでヘルスソフトウェア開発プロジェクトのモチベーションにつなげて欲しいと。
それは理想論であり、現実はもっと厳しいという人もいるかもしれないが、優秀な職人としてプライドを持つソフトウェアエンジニアなら自分が作ったソフトウェアが使われている現場を見て、そのソフトウェアが社会に貢献していることを実感することができれば、明日へのモチベーションにつながるだろうし、同時に社会への責任も感じるはずだ。
いい加減なソフトウェアを開発していたら、エンドユーザーから感謝されることはない。いい仕事をしていれば、必ずその苦労は報われる時がくる。どこかで妥協してしまえば、プロの仕事にはならないのは、どの世界でも同じだろう。自分がこのブログで伝えたいことの本質はここにあると思っている。
この歳になって理想論じゃ済まないことも世の中にはたくさんあることも分かっていた。ただ、自分が進むべき道の方向に迷いが生じたとき、家族や組織や社会と自分の関わりについて考え、どこにどれだけ貢献してきたのか、またこれからどう貢献していけばいいのか、よくよく考えて何からしら答えを出していく必要がある。
父の死はそれを考えるきっかけにもなった。
自分が若かった時、特に20代まで、父と腹を割って話をしたことは無かったと思う。自分が父親になり、子供を育てることの大変さが分かり、相談したいことが増えてきて「精神的な頼りにしているから」と伝えていたここ数年だった。
何もしなくても時は刻まれるのなら、残された時間で何が遺せるのかをこのブログでも考えてみたい。